時間がない、時間が足りないとか、そんなことは関係ない。
物質の時間、生命としての個体を超えた意識の存在。阿頼耶識。
華厳思想の意識構造に思いをはせて、より豊かな自己イメージを形成しよう。
- 時空を超えてあらゆる生命を個のなか包含する阿頼耶識
- 物理的な時間はそもそも定義されていない
- 偶然も必然もなくあるがままに
華厳思想における意識の構造
華厳思想とは
華厳思想とは、大乗仏教の仏典『華厳経』に書かれた思想です。
「華厳」は、「時間も空間も超えた、華やかな絶対的世界」という意味です。
一説によると『華厳経』の別称『雑華経』のサンスクリット(ガンダヴィユーハ・スートラ)が、「機動戦士ガンダム」の語源ともいわれる。それくらい、日本に普及している思想です。
「華厳経」を中心に据えたのが、華厳宗です。
日本での代表的なお寺は「東大寺」。
大仏様は華厳宗の毘盧遮那仏です。
華厳思想における意識の構造
華厳思想における意識の構造についてまとめます。
華厳思想では、人間のこころの働きは8つに分けて説明します。
8つとは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識です。
最も浅い階層にある第1~第5の意識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)は、現代の言葉でいうと、「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」に相当します。
第6の「意識」は、現代の意識と、意志、善悪、認識を含む意味で理解されています。
第7の「末那識(まなしき)」。これは通常の意味での「無意識」です。
フロイト精神分析における「ES(大文字のエス)」と考えてもいいかもしれません。
第8の「阿頼耶識(あらやしき)」?
これが問題だ。
「阿頼耶識」~時空を超えた普遍の意識
阿頼耶識とは漢訳です。
もともとは、サンスクリット語のアーラヤ。「蔵」という意味。
直訳としては「蔵識(くらしき)」、意訳としては「種子識(しゅうじしき)」と言われています。
ここでは、阿頼耶識をこの「蔵識」と「種子識」の2つの側面からみることで理解を深めていきます。
阿頼耶識=「蔵識」としての側面
蔵識の「蔵」は、文字通りの蔵。貯めこむところ。
蔵識としての阿頼耶識には、すべての経験を貯蔵されます。
時空を超えて、そして、人間のみならずすべての生命が発生して以来のすべての経験を貯蔵しています。
僕の経験も。
あなたの経験も。
ミジンコやアメーバの経験も。
阿頼耶識=「種子識」としての側面
種子識の「種子」は、植物の種子と同じ意味。新しい生命の種。
薫習
ひとが何か1つの行為をしたら、その行為が、阿頼耶識に影響を与えます。
これを「薫習」(くんじゅう)といいます。
たとえば、部屋で香りのよいコーヒーを淹れたとします。
その部屋でしばらく座っていると、その部屋を出ても、衣服にはよい香りがついています。
これが「薫習」です。
すべての行為は、良し悪しにかかわらず、潜在意識としての阿頼耶識の中に蓄えられていきます。
種子
薫習によって蓄えられたものは、「種子(しゅうじ)」と呼ばれます。
この種子は、個人の今後に行われる行為の源となる種です。
無意識下の持続された経験。
無意識下でも経験は継続するものなのかもしれません。
種子は何か条件が満たされたとき、つまり、因縁が成熟したとき、意識に現れ、行為として顕在化します。
現行
種子から行為としての顕在化。これを「現行(げんぎょう)」といいます。
現行は、自分が薫習した種子だけでなく、他者やミジンコの経験が薫習した種子から発芽することもあります。
自分に能力がなくても、1000年前のインドにいた天才の種子から発芽するかもしれない。
どんなに立派でも、沼に住むミドリムシの薫習した種子から発芽するかもしれない。
自他を問わず、あやゆる生命のあらゆる行為は、現行と薫習と種子の3つのプロセスを一瞬一瞬のうちで、無限に同時に繰り返されてゆきます。
つまり、自己は瞬間瞬間で無限につくられてゆく。
良い行為であろうと、悪い行為であろうと、あらゆる行為はその1つ1つが絶対の意味を持ちます。
けっして消えることも、消すこともできない。
根底にある無垢識。自性清浄心
第8阿頼耶識によって、僕たちは個として、あらゆる生命の業を因縁として引き受けます。
多くの大乗仏教思想が悲観主義的な理由はここにあります。
しかし、華厳思想はもう1つの意識をもちます。
第9意識。無垢識、自性清浄心。
個が本来もつ清浄なこころ。
ここから生まれるものはすべてが美しい。
泥沼のなかに咲く、蓮の華のように。
時間は線形ではなく、円環的な「いま」を生きる
抹香臭い話は、ここまでにしよう。
現代に生きる僕たちにとって、華厳思想はどのような生き方を示してくれるのか。
つぎに考察してみたい。
時間
僕たちは、物理学がもたらした物質社会に慣れているから、物理学の時間を前提としてモノゴトを考えています。
しかし、実際のところ、物理学は「時間」について何も定義していません。
物理学が記述しているのは、物質の運動だけです。運動は状態の変化です。状態の変化を、時間と呼んでいるだけです。
物の論理です。
一方、華厳思想では、過去・現在・未来は阿頼耶識にすべて集約されます。
過去・現在・未来を問わず薫習された種子から、瞬間瞬間に発芽する「いま」という「場」。
そういう意味で「いま」は「まるい」のです。
過去も現在も未来もすべてつながって「いま」を形作る。
物理現象や心理現象が生成する意識という「場」。場の論理です。
物の論理ではなく、場の論理で時間を考えることで、より広がりを持った豊かな時間を楽しめるのではないでしょうか。
個と普遍
第8阿頼耶識を通じて、僕たち個としての存在は、普遍の意識と時空を超えて融合します。
僕に能力がなくても、かつての天才が経験した種子から僕の人生に思い付きが生まれるかもしれない。
僕の経験が、別の誰かの役に立つかもしれない。
個としての意識。集団としての普遍的な意識。
「そんなの単なる理屈でしょ」。そうかもしれません。
しかし、心理現象としては、思い付き。発明。これらをどう説明するのか?見えないがゆえに否定するのか?
それはあまりにもったいない。
相対性理論も量子力学も無意識も、理論から導かれて活用できる理論となりました。
理論が正しいかどうかはどうでもよい。
理論が正しい行動に活用できればそれでよい。
自分ひとりぼっちの人生ではなく、あらゆる生命の総体として自分の人生をとらえたほうが、より豊かな人生となるのではないでしょうか。
偶然と必然
時間も空間も超えて、阿頼耶識ですべての生命が連動するのであれば、もはや偶然や必然という概念すらありません。
ただ、あるがままに。
変化し、花開く。
まとめ
本記事では、華厳思想の意識構造について、まとめました。
東洋思想の意識構造論はあまり紹介されることはありませんが、自分の生き方を考えるうえで参考になると思います。
是非、第8阿頼耶識、そして、その先にある自性清浄心に思いをはせてはいかがでしょうか。
- 時空を超えてあらゆる生命を個のなか包含する阿頼耶識
- 物理的な時間はそもそも定義されていない
- 偶然も必然もなくあるがままに
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