仕事でも、投資でも、僕たちは人生の大きな部分を費やしています。
巷には玉石混交な情報があふれ、自分を見つめる時間もない方も多いのではないでしょうか。
しかし、人生において、最後に残るのは自分自身。
自分自身の魅力を極限まで追求し、自己イメージを高めることが豊かな人生のためには大切と感じます。
世阿弥著といわれる『風姿花伝』は、人が本来もっている魅力を最大限引き出すための手引書ともいえる古典です。
本記事では、『風姿花伝』から、こころに残る、以下の3つのキーワードを紹介していきます。
- 花
- 離見の見
- 秘すれば花
風姿花伝とは
『風姿花伝』は、15世紀、能楽を確立した世阿弥が記した能の理論書です。
能の修練法や演者のマインド、演出論など、鋭い視点でまとめられています。
世に広まったのは20世紀、それまでは「秘伝書」の形で継承されており、その存在すら知られていなかったようです。
「初心忘るべからず」の名言は有名ですね。
能の理論書ではありますが、その内容は現代にも多いに参考になることが多く、ビジネス的な啓蒙書として紹介されるケースも多いです。
↓白洲正子さんの本は能楽の魅力が良く伝わる良書です。風姿花伝については僕が読んだ本は絶版なのでよさそうなリンクを張っておきます。興味ある方ぜひご一読を。
花
『風姿花伝』は、ひとのさりげない所作のなかに、花のようなみずみずしい魅力を見出し、それを開示する方法を伝えています。
『風姿花伝』の中心的な概念は「花」。
ひとの内側の「花」を引き出すことが『風姿花伝』の修練法です。
第1の側面
『風姿花伝』では、以下のように説明しています。
そもそも花といふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆえに、もてあそぶなり。申楽も、人の心に珍しさと知るところ、すなはち面白き心なり。花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり。
『風姿花伝』花伝第七 別紙口伝
花は、四季折々に咲き、そのときどきで人々を感動させます。
この他者のこころを揺さぶるような自分の存在の魅力、これが「花」だと言っています。
他者の感動を引き出す美しさの本質、これが「花」という概念に込められています。
第2の側面
いづれの花か散らで残るべき、散るゆえによりて咲くころあれば、珍しきなり。能も、住するところなきを、まづ花と知るべし。
『風姿花伝』花伝第七 別紙口伝
散ってはまた咲く花のはかなさ、ここが感動の本質だと。
1年を通じ、咲き続ける花はありません。そういう意味では個別の花は有限です。
しかし、さまざまな花が四季折々に見せる表情、これは無限の美しさがあります。
つまり、変化と多様性です。
変化と多様性の無限の可能性をもつ花の種を一切失うことなく、常にそれを「一度に持つ」こと、これが「花」の概念の2つ目の側面です。
離見の見
離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。
『花鏡』舞声為根
自己イメージは、自己と他者の関係性です。
他者の存在を前提しなければ、自己イメージは存在しません。
「離見の見」はこの関係性の本質です。
さらに分析が進みます。
離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、前後左右・前後を見るなり。しかれども目前・左右までをば見れども、後ろ姿をばいまだ知らぬか。後ろ姿を思えねば、姿の俗なるところをわきまへず。さるほどに離見の見にて見所同見となりて、不及目の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなるべし。
『花鏡』舞声為根
自分ひとりで考えた「自己」は、確かに「目前・左右」は見れますが、後ろ姿は永遠に見えません。
他者との関係性をとらえた「離見の見」を習得することで、初めて「見えない自分の部分」が見ることができるのです。
「離見の見」とは何を意味するか、もう少し概念を明確化していきます。
見所より見るところの風姿は、わが離見なり。しかればわが眼の見るところは、我見なり。離見の見にはあらず。
『花鏡』舞声為根
自分のまなざしから見える「自己」、これは十分な自己イメージではない。
他者のまなざしから見える「自己」をとらえることで「離見の見」、つまり十分な自己イメージといえる、ということです。
目前心後といふことあり。「目を前に見て、心を後に置け」となり。
『花鏡』舞声為根
「自分の価値観をもち、しっかりと前を向け」、世阿弥はそう言っています。
関係性は永遠です。たとえ、自己がなくなっても、他者がなくなっても。
これは「花」です。
自己と自己、自己と他者、他者と他者、関係性は変化・多様化し、花を彩る。
※「離見の見」は『花鏡』に記載を確認。『風姿花伝』は再度確認しましたが見えず。。。確認不足陳謝
秘すれば花
「秘すれば花、秘せねば花なるべからず」
『風姿花伝』花伝第七 別紙口伝
四季折々に、関係性で変化・多様に彩られた自己イメージである「花」。
その究極の姿が「秘すれば花」です。
ここで、「花」は自己イメージの可能性の最大化を図ります。
誰も知らない自分の秘密、ここに無限の可能性が込められます。
能を尽くし、工夫を極めて後、この、花の失せぬところをば知るべし。この、物数を極むる心、すなわち花の種なるべし。されば花を知らんと思はば、まづ種を知るべし。花は心、種はわざなるべし。
『風姿花伝』花伝第三 問答条々
自分の力の及ぶ限り修練を繰り返し、工夫を施すことで、永遠の「花」を咲かせ続けることを探求すべきです。
「形なき姿」の自己と他者、ただただ、花のみがある。
まとめ
花の期間は短く、はかないものです。
しかし、その生命は種で伝えられ、やがて再び満開の花が咲き誇ります。
僕たちも仕事や投資、さまざまな局面で、はかないながらも、ひと時の花を咲かせていきたいものです。
まことに得たりし花なるがゆえに、…(中略)…
枝葉も少なく、老木になるまで、花は散らで残りしなり
『風姿花伝』風姿花伝第一 年来稽古の条々
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